越中八尾和紙
 と桂樹舎

八尾の町と「桂樹舎」について

日本の真ん中あたり、日本海に面した富山県。
日本有数の美しく壮大な山脈“立山連峰”を望む、富山県の南側に位置する八尾町は、雪国ならではの頑丈な古民家が軒を連ねる、情緒あふれる坂の町です。
八尾には約300年前から毎年9月1日から3日にかけて行われる「おわら風の盆」という富山県を代表する幻想的な祭りがあり、国内外から多くの観光客が訪れ、三日三晩、祭りに酔いしれます。

八尾和紙はどのようにして生まれたのでしょうか

八尾の和紙づくりは室町時代(1336年~1573年)にはじまったとされます。
町は、かつては街道の拠点として、飛騨との交易や、養蚕業と養蚕のための紙の生産、日本全国に名を馳せた“富山の売薬”の包装紙の生産などで繁栄しました。江戸時代から明治初期(1890年頃)の最盛期には、八尾の多くの家庭で手作業による紙漉きが行われていたといいます。

失われつつあった和紙の魅力に取りつかれて

機械による紙の生産がはじまると、八尾の和紙産業は徐々に衰退します。
昭和初期(1930年頃)、“八尾和紙”の魅力に取りつかれた一人の青年がいました。
桂樹舎の創設者、吉田桂介《よしだ けいすけ》(1915年-2014年)です。
「和紙の良さをもっと広く伝えたい」。
八尾で和紙工房を興した桂介は熱い思いをいだき、後に人間国宝に認定される芸術家などと交流を重ね、和紙の普及に努めました。
しかし、近代化が進み紙は機械が大量生産する時代となり、手漉き和紙はますます活躍の場をなくしていきます。

桂樹舎の前身「越中紙社」創業時の工房。現在は紙漉き体験をここで行う。

日本の美と職人の技を見直す

このころ日本にひとつの新しい流れが誕生します。柳宗悦《Muneyoshi Yanagi》による“民藝運動”です。西欧の近代文化の陰で失われていく民衆の文化にかけがえのない美を感じ、残していこうとする、それまでにない取り組みでした。
桂介は柳宗悦のもとを訪ね、八尾和紙に息づく伝統美を再発見することになります。
さらに、現在の八尾和紙の特徴である型染めが生まれるきっかけとなった、重要無形文化財「型絵染」の保持者で人間国宝、芹沢銈介《Keisuke Serizawa》(1895年-1984年)と出会います。
二人の交流は、日本人の魂をゆさぶる華やかさとぬくもりを併せ持つ、美しい八尾の型染め和紙をつくりだしました。
一度は途絶えてしまうかと思われた八尾和紙。日本の美を見つめ、他に類をみない伝統工芸品が誕生したのです。

現代でも昔と変わらない製法で

芹沢銈介型染めカレンダーは、復刻版としてオリジナルを忠実に再現し、現在も一枚一枚手作業で制作。毎年多くの方々にご愛用ただいております。
また精緻を凝らしたデザインで色とりどりに染め上げられた型染め和紙は、文庫箱やペン立て、名刺入れなどの商品に仕立てられ、暮らしを彩ります。これらはデパートや雑貨店などで販売され、時代の先端を追いかける人たちの心をとらえています。
そして、海外の見本市にも度々出品、パリ、ミラノ、台北などで桂樹舎の製品が紹介されました。

「桂樹舎」の型染め和紙は、今でもすべての工程を手作業で行い、ひとつひとつ丁寧に染め上げています。また、独自の防水・防汚加工を施しており、紙とは思えないほどの耐久性を兼ね備えています。
日本の歴史に息づく“伝統と美”がここにあります。ぜひ八尾に来て、手に取ってご覧になってください。

桂樹舎 代表  吉田泰樹《よしだ やすき》

桂樹舎の
型染め和紙
工程

桂樹舎では、大きく分けて製紙部門と染色部門があり、すべて職人の手作業による分業で行っています。仕上がった型染め和紙を使い、ポストカードや文庫箱、ノートなどの文具類、クッション、バッグ、鯉のぼり、人間国宝である芹沢銈介氏考案のカレンダーなど、多種に及ぶ品々が作られています。
紙漉きと型染め和紙の工程の一部をご紹介します。

紙漉き

一枚、一枚、手作業で紙を漉きます。美しく強度の高い紙を漉くには熟練が必要です。


圧搾

漉いた紙を時間をかけて水分を搾ります。


乾燥

乾燥も一枚ずつ丁寧に行い、紙の表面を滑らかにします。


型彫り

デザインを起こし、型紙に写し取り、小刀などで彫ります。


糊置き

和紙の上に型紙を置き、もち粉と糠を混ぜ糊状にこねた糊(防染糊)を和紙に写します。


地染め

糊を乗せた和紙を染めていきます。染料は顔料で、色止剤として豆汁(ごじる)を使います。


色差し

地染めの色に更に色を重ねる、精密さを要する作業です。


水元

最後に水に浸し糊を落とします。このあと乾燥を経て防汚処理などを行います。